大河ドラマや歴史小説でおなじみの「信長が若き秀吉を『さる!』と呼び捨てにする」シーン。
しかし近年の史料研究では、これを裏付ける同時代の記録は見つかっていません。
この記事では、一次史料と学術研究をもとに、史実として確認できることと後世の創作を切り分けて解説します。
- 信長が秀吉を「猿」と呼んだ確証の有無
- 秀吉を「禿鼠」と呼んだ確かな証拠
- 「秀吉=猿」イメージ定着の4要因
- 他の家臣のあだ名の史実性
織田信長は秀吉を「猿」と呼んだのか|史料の検証

結論から言うと、織田信長が秀吉を日常的に「猿」と呼んでいたことを裏付ける同時代史料は、現在のところ見つかっていません。
信長の側近・太田牛一がまとめた『信長公記』をはじめ、織田家の公式文書や当時の手紙を調べても、信長が秀吉を直接「猿」と呼んだ記述は見当たらないのです。
では、なぜ「信長の文書に『猿』とある」という話が広まったのでしょうか。それには、ある有名な文書が関係しています。
「織田信長黒印状」に登場する「猿帰候て」
信長が発給した文書の中で「猿」の文字が登場する唯一の例として知られるのが、熊本・永青文庫が所蔵する「織田信長黒印状」です。信長から丹羽長秀・明智光秀・滝川一益・細川藤孝ら重臣たちに宛てた連絡文書で、こう書かれています。
猿帰候て、夜前之様子具言上候、先以可然候 (訳:猿が帰ってきて、昨夜の様子をつぶさに報告した。まずもって適切な対応である)
かつて「この『猿』は秀吉のことではないか」という説が唱えられたことがありますが、現在の研究者の間ではこの解釈にはかなり慎重な見方が示されています。
理由は主に次の2点です。
- 年代の問題:歴史学者・奥野高広氏の研究では、この文書は天正5年(1577年)3月15日付とされています(天正6年説など異論もあります)。当時、信長は紀州攻めなど各地の戦線に対応しており、忙しく動いていた時期でした。
- 文書の性格の問題:当時の秀吉はすでに「羽柴筑前守」として織田家中で重要な地位にありました。光秀や丹羽ら他の重臣に宛てた公式文書の中で、これほどの武将を「猿」という蔑称でわざわざ呼ぶだろうか、という疑問があるのです。
そのため研究者の間では、この「猿」は秀吉ではなく、信長の下で密偵や使者を務めていた側近・小者の名前や通称だった可能性が有力視されています。
当時は動物の名前を小者につける風習があったためです。
織田信長が秀吉を「禿鼠」と呼んだ確かな証拠|ねね宛て書状

信長が秀吉を日常的に「猿」と呼んでいた証拠はない一方で、信長が秀吉を強烈な言葉で表現した確かな史料は存在します。それが、秀吉の正室・ねね(おね、後の高台院)に宛てて送られた書状です。
この中で信長は秀吉のことを「かの禿ねずみ(あの禿げネズミ)」と書いています。
どんな経緯で書かれた手紙なのか
長浜城主となった秀吉は出世とともに側室を持つようになり、夫婦間にトラブルが生じました。悩んだねねは安土城を訪ね、主君である信長に直接相談したと伝えられています。
織田軍団を率いる信長にとって、主力武将である秀吉の家庭内トラブルは放っておけない問題でした。信長はねねの自尊心を励ましつつ、秀吉を暗にけん制する意図でこの手紙を書いたと考えられています。
信長の公印「天下布武」の朱印が押されたこの書状は「羽柴秀吉室宛消息」とも呼ばれ、重要美術品に指定されています。
書状の原文と現代語訳
原文
仰せの如く、今度はこの地へはじめて越し、見参に入り、祝着に候。殊に土産色々美しさ、中々目にも余まり、筆にも尽くし難く候。その返答に、こちらからも何をか遣わすべきと思い候へど、そなたより見事な物持たせやるべく、これといってなければ、まずまずこの度は見合わせ候。次回に来たり候時、重なるべく候。さて、そなたの容姿は、いつぞや見し折よりは、十も二十も勝たれ候。藤吉郎(秀吉)、連々不足の旨申のよし、言語同断、曲事候か。何方を相尋ね候共、それさまの程のは、又二度、かの禿ねずみ、相求め難き間。これ以後は、身持ちを良う快になし、いかにもかみさまなりに重々しく悋気(りんき)などに立ち入り候ては然るべからず候。ただし、女の役にて候間、申すものと申さぬなりにもてなし、然るべく候。尚、文体に羽柴には意見、請い願うものなり。のふ
現代語訳
あなた(ねね)が言われた通り、この度初めて安土の地を訪ねてくれ、直接会えたことを大変嬉しく思う。持ってきてくれたお土産の数々の美しさは目を見張るばかりで、言葉では言い尽くせないほどだ。
お返しに何か贈ろうと思ったが、あなたの品物があまりに見事で、それに勝るものが手元にない。だから今回は見送り、次に来た時に用意しよう。
さて、あなたの容姿は、以前会った時よりも十倍も二十倍も立派になられている。それなのに藤吉郎(秀吉)が日頃あなたへの不満を言っているとは、言語道断で許しがたいことだ。どこを探しても、あなたほどの女性を二度とあの禿げネズミ(秀吉)が見つけられるはずがない。
これからは正室として堂々と陽気に振る舞い、嫉妬などで心を痛める必要はない。ただし妻としての嗜みとして、言いたいことも少し含みを持たせて伝えるのがよいだろう。なお、この手紙は秀吉にも見せて聞かせるように。
のふ(信長より)
この手紙から見える信長の配慮
- ねねの自尊心を守る:「以前より十倍も二十倍も立派になった」と称えることで、傷ついたねねの立場を保証した。
- ユーモアによる慰め:秀吉を「禿ねずみ」と表現することで、ねねの不満を和らげようとした。
- 秀吉への圧力:末尾で「秀吉にも見せるように」と念押ししており、主君からの叱責として秀吉に反省を促す狙いがあったとみられます。
ただし注意したいのは、信長が日常的に秀吉を「禿鼠」と呼んでいたかどうかまでは分からないという点です。
この書状の中で一度そう表現したことは事実ですが、それが普段のあだ名だったと断定できる根拠はありません。

なぜ「秀吉=猿」のイメージが定着したのか

信長が日常的に「猿」と呼んでいた証拠がないにもかかわらず、なぜ世間に「秀吉=猿」のイメージが定着したのでしょうか。これは一つの創作というより、同時代の記録・政治的風刺・後世の物語が積み重なって形成されたと考えられています。
要因1:同時代人による容貌の描写
宣教師ルイス・フロイスは『日本史』の中で、秀吉について「身長が低く、醜悪な容貌で、髭が少なく目が飛び出ていた」と記しています。
また、文禄・慶長の役で捕虜となった朝鮮の儒者・姜沆(カンハン)は、著書『看羊録』の中で秀吉についてこう書いています。
賊魁(賊軍の長)秀吉は、尾張州中村郷の人である。天文5年(1536年)に生まれた。容貌が醜く、身体も短小で、容姿が猿のようであったので、結局(猿を)幼名とした。
姜沆自身は秀吉に直接会ったわけではありませんが、当時すでに日本国内で「秀吉=猿」というイメージが一定程度広まっており、それが朝鮮側の記録にも反映された可能性があります。
なお、歴史学者の呉座勇一氏は、この「猿」のイメージが単なる容姿への蔑称ではなく、秀吉自身が「日吉山王権現」(猿を神の使いとする信仰)と自らを結びつけて演出した、いわば自己プロデュースの結果だった可能性も指摘しています。
侮蔑と称賛が入り混じった複雑なイメージだったと見るのが実態に近いようです。
要因2:政治的風刺(聚楽第の落首)
天下人となった秀吉が京都に築いた聚楽第の壁に、政権を批判する落首(風刺の歌)が書かれる事件が起きました。
まつせ(末世)とは べち(別)にはあらじ 木ノ下の さる(猿)関白を 見るにつけても
秀吉の旧姓「木下」と「木の上にいる猿」を掛け合わせ、関白となった秀吉を揶揄したものです。
誰が書いたかは特定されていませんが、秀吉が関白だった時期にはすでに、彼を「猿」と結びつけて風刺する表現が存在していたことがわかります。
要因3:江戸時代の太閤記類による物語化
江戸時代に入ると、秀吉の一代記を描いた『太閤記』系の読み物が広く普及しました。
『太閤素生記』には秀吉の幼名を「猿」とする記述があり、小瀬甫庵の『甫庵太閤記』では、信長が初めて秀吉を見て「猿にも似た」と評し、後に「猿め」と呼びかける場面が描かれています。
つまり「江戸時代にゼロから設定が作られた」というより、すでにあった容貌イメージや風刺が、太閤記類によって『信長が秀吉を猿と呼んだ』という物語の型として定着したと見るのが正確です。
要因4:ドラマ・小説による現代への定着
江戸の講談・歌舞伎から現代のNHK大河ドラマ、吉川英治『新書太閤記』や司馬遼太郎『新史太閤記』などの歴史小説まで、「威張る信長」と「サルと呼ばれながら出世する秀吉」というわかりやすい主従関係が、演出上の記号として繰り返し使われてきました。
これが長年積み重なることで、国民的なイメージとして定着していったのです。
まとめ表
| 時代・媒体 | 内容・記述 | 位置づけ |
|---|---|---|
| 安土桃山(文書史料) | 信長黒印状の「猿帰候て」(天正5年頃) | 未確定(秀吉ではなく側近・小者を指す説が有力) |
| 安土桃山(記録・風刺) | 姜沆『看羊録』、聚楽第の落首「さる関白」 | 史実(秀吉を猿に結びつけて形容・揶揄する表現は存在) |
| 江戸時代(太閤記類) | 『太閤素生記』の幼名「猿」、『甫庵太閤記』の呼びかけ | 物語化(後世の演出による定型化) |
| 現代(ドラマ・小説) | 大河ドラマ等で信長が秀吉を「サル!」と呼ぶ演出 | フィクション(キャラクター付け) |
織田信長と他の家臣のあだ名・異名
信長は家臣の特徴を捉えたあだ名をつけるのが好きだったという説もよく知られています。史実性と伝承の境界線を整理してみましょう。
- 明智光秀「金柑頭」:丸くて薄い頭を金柑になぞらえた蔑称とされますが、後世の軍記物『明智軍記』などに登場する表現で、『信長公記』のような同時代一次史料には確認できません。
- 柴田勝家「鬼柴田」:信長個人がつけた蔑称というより、戦場での猛勇さを称える武名として後世に定着したものです。
- 丹羽長秀「米五郎左」:「日々の生活に欠かせない、重宝する人物」の意とされますが、この語源も後世の解釈として扱うのが適切です。
こう見ると、信長が家臣の容姿を直接的に表現した言葉として確かな書状に残っているのは、秀吉に対する「禿鼠」だけという、興味深い構図が浮かび上がります。
まとめ|織田信長と秀吉「さる」伝説の結論
- 信長が秀吉を日常的に「猿」と呼んでいたことを裏付ける同時代史料は、現在確認されていない。
- 「織田信長黒印状」の「猿帰候て」の「猿」も、秀吉ではなく側近や小者を指す可能性が有力視されている。
- 信長がねねに宛てた書状には、秀吉を指して「禿ねずみ」と表現した確かな実例が残っている。ただしこれが日常的なあだ名だったかは限定できない。
- 「秀吉=猿」のイメージは、同時代人による容貌描写、聚楽第の落首(天正17年〈1589年〉)、江戸時代の太閤記類による物語化、そして現代のドラマ・小説による記号化が積み重なって定着した。
「信長が若き秀吉を『サル!』と呼んでいた」という光景は、同時代史料で確認できる厳密な史実というより、後世の風刺や物語を通じて形作られたイメージである可能性が高い——これが現在の歴史学における妥当な見方です。
フィクションとしての「サル」を楽しみつつ、その裏にある「禿鼠」の書状に見える人間味も知ることで、信長と秀吉のドラマをより深く味わえるのではないでしょうか。
よくある質問(FAQ)
- 信長と秀吉は実際どのような関係だったのですか?
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信長が秀吉を重要な家臣として重用していたことは確かです。ねね宛ての書状に見られるように、家庭内のトラブルにまで気を配るなど、織田家中で秀吉が重要な地位にあったことがうかがえます。ただし「非常に仲が良かった」と心理的な面まで断定することは難しく、主君と優秀な家臣という強い関係性があったと捉えるのが妥当です。
- 秀吉自身が「猿」と名乗った記録はありますか?
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成人後の秀吉が正式な通称として「猿」を使ったことを示す確実な同時代史料は確認されていません。後世の『太閤素生記』には幼名が「猿」だったと記されていますが、秀吉が公式な場で自ら「猿」と名乗った記録はありません。
- ねね宛ての信長書状はどこで見られますか?
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重要美術品に指定されており、名古屋の徳川美術館などの企画展・特別展で公開されることがあります。歴史の教科書や図録にも写真資料として広く掲載されています。

