天下統一を目前にしながら、なぜ織田信長は征夷大将軍の職に就かなかったのでしょうか。
「源氏しか将軍になれない」「平氏だったから諦めた」といった通説は、近年の史実検証によって明確に否定されています。
では、破竹の勢いで出世を重ねた信長が突如として官職を辞し「無官」となった真意とは何だったのか。そして本能寺の変の直前、朝廷から打診された「将軍・関白・太政大臣」という破格の提案に、信長はどう応えようとしていたのでしょうか。
本記事では一次史料『晴豊公記』や最新の研究動向に基づき、通説の誤解を解き明かしながら、信長が描いた支配構想の真相に迫ります。
- 「将軍職=源氏限定」が誤解である理由
- 信長が右大臣を辞任し無官となった背景
- 本能寺直前「三職推任問題」の真相
- 信長が将軍にならなかった理由と最新解釈
征夷大将軍は源氏しか就任できない?織田信長をめぐる誤解

「征夷大将軍になれるのは源氏の血を引く者に限られる」という言説は、歴史ドラマや概説書などで長らく親しまれてきました。しかし、鎌倉幕府の歴代将軍の系譜を振り返るだけでも、この説が制度的な事実ではないことが明白になります。
源氏による将軍職の継承はわずか3代で途絶えています。4代・5代の九条家は藤原氏であり、6代以降は皇族から親王将軍が迎えられました。
つまり、「征夷大将軍=源氏限定」という厳密な資格制度が存在したわけではありません。したがって、「信長が源氏ではなかったから将軍になれなかった」という前提自体が誤解に基づいたものといえます。
信長の出自と「平氏説」のリアル
「信長は平氏だったから将軍になれなかった」という説も成立しません。
信長の出自については、藤原氏説・平氏説・忌部氏説など複数の伝承が存在します。
戦国期の史料には「平信長」という署名や記述が見られるものの、確定的な血統証明とまでは言えません。福井県越前町の織田文化歴史館の解説でも、平氏説を紹介しつつ「信長が自ら平氏の末裔と明確に自称していたことを示す客観的資料は少ない」とされています。
そもそも信長が平氏であったかどうかも確定的な事実とは言えない以上、「平氏ゆえに将軍職から除外された」と論じることはできません。
織田信長の官位推移と1578年「辞官・無官」の謎
信長がどのような官位をたどったのかを時系列で整理すると、信長の政治的姿勢が見えてきます。
織田信長の主要官位年表
従五位下・弾正少忠に任官。足利義昭からの副将軍・管領への就任要請を辞退。
弾正大弼に任官。
権大納言に昇進し、右近衛大将を兼任。武家の棟梁としての地位を示す重要な官職に就く。
内大臣に昇進。
右大臣に昇進(右近衛大将兼任)。
右大臣および右近衛大将を辞任。以降、無官(散位)となる。
なぜ大臣職を辞任して「無官」となったのか?
1575年から1577年にかけて順調に朝廷の最高位へと上り詰めた信長ですが、1578年に突如として右大臣・右近衛大将の官職を辞任します。
この辞官に関して、信長は「天下平定ののち、改めて相応の顕職に就く」という意向を朝廷に示していたと伝えられています。天下統一という大業が半ばである以上、現時点での官職に固執せず、軍事・政治の指揮に専念する姿勢を示したと考えられています。
織田信長に征夷大将軍を打診?「三職推任問題」の真相
信長と将軍職の関係を論じるうえで、最も重要な一次史料が天正10年(1582年)5月に起きた「三職推任(さんしょくすいにん)問題」です。
『晴豊公記』が伝える史実の記録
公家・勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)の日記『晴豊公記』には、本能寺の変が起きるわずか1ヶ月ほど前のやり取りが記録されています。
- 4月25日:朝廷側から織田信長に対し、太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかの官位に就く意向があるか打診が行われる。
- 5月4日:勧修寺晴豊が信長の側近である森蘭丸や京都所司代の村井貞勝に対し、「関東打はたされ珍重間、将軍になさるべき(武田氏を滅ぼした功績を称え、将軍に就任されるのがよいのではないか)」という趣旨を伝える。
この史料からわかるのは、「信長が征夷大将軍に就任する選択肢は、現実の政治的選択肢として朝廷から提示されていた」という事実です。「平氏だから将軍になれない」といった制約は、当時の朝廷側にも存在していなかったことが証明されています。
学界における解釈の対立
この三職推任について、歴史研究者の間では多角的な議論が続いており、国会図書館にも登録されている堀新氏や立花京子氏らの論文に見られるように、異なる立場から論争が交わされています。
主な研究視点には以下のような解釈があります。
- 朝廷主導説(融和説):朝廷側が信長を最高位の枠組みに取り込み、秩序を安定させるために提案したとする見解(谷口克広氏、橋本政宣氏、堀新氏、脇田修氏など)。
- 信長主導説(対立説):信長側が朝廷に圧力をかけ、自らの望む官位を引き出そうとした、あるいは朝廷との関係再編を図っていたとする見解(立花京子氏、今谷明氏など)。
- 信忠優先・辞退説:信長自身は無官のまま自らの政権構想を進め、嫡男である織田信忠への官位継承を優先しようとしていたとする有力な解釈の一つ。
重要点として、信長がこの打診に対して「何を望み、どう回答しようとしていたのか」を明確に示す一次史料は存在しません。天正10年6月2日の「本能寺の変」によって信長が急逝したため、最終的な回答は歴史の闇の中に消えることとなりました。
したがって、「信長が将軍就任を拒否した」あるいは「太政大臣を選んだ」と断定することはできません。
足利義昭の存在と「鞆幕府」

信長が将軍にならなかった、あるいは就任に慎重であった背景には、追放された15代将軍・足利義昭の存在も影響していたと考えられます。
鞆での義昭の活動
元亀4年(1573年)、信長によって京都を追放された足利義昭は、備後国の鞆(現在の広島県福山市)に移り、毛利氏の庇護を受けました。
義昭は京都を追われた後も将軍職を辞任しておらず、各地の大名(毛利輝元、上杉謙信など)に対して御内書(将軍の公式文書)を発給し、信長包囲網の形成を呼びかけていました。
「鞆幕府」と室町幕府の終焉
近年の研究では、鞆における義昭の政治勢力を「鞆幕府」と呼ぶ研究上の概念が提示されています。
一般的には、1573年の京都追放をもって室町幕府の滅亡とする解釈が定着していますが、義昭が征夷大将軍の職にとどまり政治活動を継続していたことから、1588年まで室町幕府勢力が存続したとみる研究者もいます。
実際に、足利義昭が正式に将軍職を辞し、朝廷に返上したのは天正16年(1588年)1月13日(豊臣秀吉の庇護下に入った後)のことです。信長の生前には、現職の征夷大将軍として足利義昭が存在し続けていたという政治的現実がありました。
織田信長が目指した支配秩序と朝廷との関係
かつては「信長は朝廷の権威を完全に無視し、絶対的な独自権力を打ち立てようとした」という劇的な解釈が語られることもありました。しかし、近年の史実検証では、信長と朝廷の関係はより複雑かつ実利的なものであったと捉えられています。
既存権威の活用と独自支配の構築
信長は、既存の権威を単純に破壊しようとしたわけではありません。
- 朝廷から授与される官位を有効に利用し、他の戦国大名に対する優位性を保持した。
- 正親町天皇との良好な関係を維持し、戦局が不利な際には天皇の勅命を利用して講和を結んだ(石山合戦など)。
- 公家社会との儀礼的関係を維持し、伝統的な法秩序や権威を政治的に活用した。
信長は朝廷を無用としたのではなく、伝統的な朝廷・幕府の権威を利用しながら、自らの強大な軍事力と経済力を組み合わせた独自の支配秩序を模索していたといえます。
暦問題(天正10年)に見る権限関係
信長と朝廷の権限調整を示す象徴的な事例として、天正10年の「暦問題」があげられます。
当時、京都(朝廷)で使われていた「京都暦」と、信長が支配する尾張・美濃などで使われていた「三島暦」の間で、閏月(うるうづき)の挿入位置をめぐり日付のズレが生じました。信長は物流や軍事行動の混乱を防ぐため、暦の統一を図ろうと朝廷側に働きかけを行いました。
作暦権は伝統的に朝廷の管轄とされていたため、この介入は信長と朝廷の権限境界を示す重要な事例として研究されています。ただし、これをもって「信長が朝廷を超越しようとした証拠」とまで即断することはできず、実務上の統制を重視した信長の合理的な政治手法の一環と見られています。
征夷大将軍と主要武家政権の最高官職

信長・秀吉・家康という三英傑が、それぞれどのような最高位を選択し、政権の頂点に立ったのかを比較すると、信長の立場がより浮き彫りになります。
| 権力者 | 生前最高位 | 政治体制の選択と背景 |
| 織田信長 | 正二位・右大臣 | 1578年に右大臣・右大将を辞任して無官へ。朝廷・幕府の枠組みを利用しつつ独自秩序を模索する中、本能寺の変で倒れる。 |
|---|---|---|
| 豊臣秀吉 | 正一位・関白・太政大臣 | 関白という公家政権型の頂点を選択。近衛前久との関係を整えて藤原氏の身分を獲得し、後に豊臣姓を下賜されて豊臣幕権(関白政治)を確立。 |
| 徳川家康 | 正一位・征夷大将軍・太政大臣 | 徳川氏の源氏系譜を背景に征夷大将軍に就任。武家政権としての「江戸幕府」を開設し、政権の永続性を確保。 |
秀吉は公家秩序の頂点である関白を選び、家康は武家の棟梁である征夷大将軍を選びました。これに対し、信長は一度就いた右大臣を辞任したまま無官の状態で天下統一を進めており、三者三様の政治構想を持っていたことが分かります。
まとめ|織田信長が征夷大将軍にならなかった理由
最後に、信長が征夷大将軍にならなかった理由について、「確実に言える史実」と「研究上の解釈」、そして「断定できないこと」をクリアに整理します。
【確実な史実】
- 征夷大将軍は源氏限定の職ではなく、藤原氏や皇族の就任例が存在する。
- 信長は1578年に右大臣・右近衛大将を辞任し、以降は無官であった。
- 1582年の「三職推任問題」において、朝廷から将軍職が候補の一つとして提示されていた。
- 足利義昭は京都追放後も鞆で活動を続け、1588年まで将軍職にとどまっていた。
- 本能寺の変により、信長の最終的な意志や選択は確認できなくなった。
【有力な解釈】
- 信長は天下平定を優先するため、あえて特定の官職に就かない無官状態を意図的に維持していた。
- 信長自身よりも、嫡男・織田信忠への官位昇進や家督継承を優先していた可能性がある。
- 現職の将軍である足利義昭が存在していたことが、将軍職就任における政治的制約となっていた。
- 信長は従来の武家幕府という形式にこだわらず、新しい支配体系を模索していた。
【まだ断定できないこと】
- 信長が将軍就任を明確に「拒否」したのかどうか。
- 三職推任において、信長が太政大臣・関白・将軍のどれを選ぶつもりだったのか(あるいは全て辞退するつもりだったのか)。
- 信長が朝廷を完全に不要とする「絶対的支配者」を目指していたのかどうか。
結論として
信長が征夷大将軍にならなかった理由は、「源氏ではなかったから」という血統上の制約によるものではありません。
1578年以降の「天下平定まで無官とする」という方針や、足利義昭の存在、そして信長独自の政権構想など複層的な要因が組み合わさっていたと考えられます。
一次史料が存在しない以上、一つの理由に特定することはできませんが、旧来の俗説を超えたリアルな歴史像が近年の研究によって明らかになっています。

