えっ、名古屋じゃない?織田信長の生まれは勝幡城だった!最新研究を解説

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織田信長の生まれは勝幡城だった!

日本史の中で圧倒的な人気を誇る戦国武将、織田信長。彼の生涯を調べていると、生年月日や出生地について「勝幡城(しょばたじょう)」や「那古野城(なごやじょう)」など複数の地名が出てきて、「結局、どこで生まれたと考えるのが自然なのだろう?」と疑問に思うことはありませんか?

また、ネットで「織田信長 生まれ」と検索すると、幼名「吉法師(きっぽうし)」や「大うつけ」のエピソードだけでなく、生まれつきの性格、血液型A型説まで、実にさまざまな情報がヒットします。

この記事では、近年の歴史研究においてもっとも有力な説となっている「勝幡城出生説」を中心に、織田信長の生年月日、出生地に関する研究の変遷、家族構成、そして「大うつけ」と呼ばれた幼少期について、史料をもとに分かりやすく解説します!

さらに、ネットでよく検索される「血液型」の噂や「第六天魔王」という言葉の背景も整理しました。歴史の真実に一歩近づく最新の研究動向を、ぜひ最後までお楽しみください。

この記事で分かること
  • 信長の生年月日と誕生日をめぐる異説
  • 那古野城説から勝幡城説が有力な理由
  • 勝幡城の環境が後の政策に与えた影響
  • 信長の家族構成と家督争いの背景
  • 血液型や第六天魔王の俗説の真相
目次[ページ内リンク]

織田信長の生まれた日の謎を読み解く

土田御前と織田信長像は、土田御前と幼少期の織田信長を表現した像です。信長ゆかりの地として伝わる可児市の歴史と、母子の深い絆を今に伝えています。

まずは、織田信長がこの世に生を受けた「日付」について、現在の研究状況から確認していきましょう。

信長が生まれた年は、戦国時代の幕開けを感じさせる天文3年(1534年)であることで、ほぼすべての歴史研究者の意見が一致しています。しかし、「誕生日」については複数の有力な説が存在します。

通説とされる「5月12日説」

もっとも多くの歴史書籍や伝記などで採用されているのは天文3年5月12日という日付です。

戦国時代は太陰太陽暦(旧暦)が使われていたため、これを現代の太陽暦(新暦)に換算すると、計算方法によって以下の2通りの日付になります。

  • ユリウス暦:1534年6月23日
  • 先発グレゴリオ暦:1534年7月3日

歴史シミュレーションゲームや地域の歴史イベントなどで信長の誕生日を扱う際は、この「5月12日」または新暦の「6月23日」が基準となるケースが一般的です。

尾張の在地史料が伝える「5月28日説」

一方で、信長が生まれ育った尾張地方(現在の愛知県)に伝わる複数の地方史料(在地史料)には、天文3年5月28日に生まれたという記録も残されています。新暦(ユリウス暦)に換算すると「1534年7月9日」にあたります。

当時の出生記録は、後世に編纂される過程で転記ミスが起こることも珍しくありません。現在もどちらが完全な正解かを断定することは難しいですが、歴史研究の間ではこの2つの日付が有力な学説として扱われています。

項目内容・解説
誕生年天文3年(1534年)
通説の誕生日5月12日(新暦換算:6月23日 または 7月3日)
有力な異説5月28日(新暦換算:7月9日)
幼名吉法師(きっぽうし)

書籍やWebサイトによって誕生日が少しずつ違って見えるのは、このように「依拠している史料の違い」や「旧暦から新暦への換算方法の違い」があるからなのです。

織田信長の生まれは「勝幡城」が現在もっとも有力な説!

勝幡城跡は、戦国時代の織田氏の居城跡で、織田信長が生誕した地の有力候補として知られています。現在は石碑や案内板が整備され、信長ゆかりの史跡として親しまれています。

織田信長の出生地をめぐる研究は、近年の史料検証によって大きな変化を迎えました。

以前は、名古屋市の中心部(現在の名古屋城二之丸付近)にあった那古野城(なごやじょう)で生まれたとする説明が一般的でした。しかし、近年の歴史学界では、勝幡城(しょばたじょう)生まれという見方への支持が集まっており、現在もっとも有力な説となっています。

ただし、研究書によっては今なお両方の説を並記しているものもあり、完全に一つに定まったわけではありません。なぜ、長年広く知られていた那古野城説が見直されることになったのでしょうか。その背景には、重要史料の再検証がありました。

有力な根拠となった公家の日記『言継卿記』

那古野城出生説の根拠は、信長の父・織田信秀(のぶひで)が「1532年(享禄5年)頃に今川氏から那古野城を奪い、そこを本拠地にしていた」と考えられていた点にありました。信長が生まれたのは1534年ですから、父が那古野城にいたのなら、信長もそこで生まれたと考えるのが自然だったわけです。

しかし、京都の公家・山科言継(やましな ときつぐ)が残した詳細な日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』の記述を詳しく検討したところ、この前提年代に矛盾があることが浮き彫りになりました。

信長が誕生する前年にあたる天文2年(1533年)7月〜8月、山科言継や飛鳥井雅綱(あすかい まさつな)といった朝廷の公家たちが尾張国を下向し、織田信秀のもとを訪れています。その際、公家たちをもてなした信秀の居城は、那古野城ではなく「勝幡城」であったと記録されているのです。

さらに、同じ天文2年の段階で、那古野城の本来の城主である今川氏豊(いまがわ うじとよ/当時は幼名の竹王丸)が、那古野城側の人間として公家たちの会に参加している様子も確認できます。

つまり、信長が生まれる1年前の時点で、那古野城はまだ織田家の手に渡っておらず、今川氏の支配下にあったことが読み取れるのです。

信秀の本拠地移転のタイムライン(有力説)

これらの検証により、織田信秀が今川氏から那古野城を攻略したのは、信長誕生後の天文6年〜7年(1537年〜1538年)頃とする説が有力になりました。

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1533年(天文2年)

父・信秀の本拠地は「勝幡城」。那古野城はまだ今川氏の城。

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1534年(天文3年)

織田信長(吉法師)誕生。勝幡城で生まれた可能性が高いとされる。

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1537〜1538年頃

信秀が那古野城を攻略したとする有力説。のちに幼い信長に那古野城が与えられる。

比較項目勝幡城(しょばたじょう)那古野城(なごやじょう)
現在の評価出生地として現在もっとも有力な説幼少期の居城であったとされる城
立地と特徴現在の愛知県愛西市・稲沢市。津島湊に近い。現在の名古屋市中区。尾張中心部の軍事拠点。
研究の動向史料の再検証により支持を集めている『信長公記』などの記述から長く支持された説

勝幡城の環境が信長に与えた影響

勝幡城は、日光川や三宅川などの河川に囲まれた平城でした。そして、当時の織田弾正忠家(だんじょうちゅうけ)の莫大な経済力の源泉であった伊勢湾の巨大商業都市「津島(つしま)」に近い場所に位置していました。

近年の研究者の間では、幼少期から津島湊に近い環境で育った経験が、後年の「楽市楽座」をはじめとする経済や流通を重視した政策へ影響した可能性が指摘されています。

もちろんこれは当時の信長の心境を直接示す史料がないため推論の域を出ませんが、織田家の権力基盤を考えるうえで非常に興味深い視点です。

吉法師の誕生と織田家の家族構成

信長は誕生すると、幼名を「吉法師(きっぽうし)」と名付けられました。

この名前の正確な由来や意味を記した当時の史料は残されていませんが、一般的には当時の武家社会の慣習通り、健やかな成長を願った幼名と考えられています。

信長は、尾張守護代の奉行職(三奉行の一つ)でありながら実質的に大きな勢力を築きつつあった織田信秀を父に持ち、正室である土田御前(どたごぜん)を母として生まれました。

母の土田御前に関しては、具体的な人物像や性格を示す史料がほとんど残っておらず、後世の創作などでイメージが作られている部分が大きいのが現状です。

嫡男としての立場と周囲の関係

織田家には、信長より年長(一説には同い年とも)の兄である織田信広(のぶひろ)がいました。

しかし、信広は側室の子(庶子)であったため、正室の子である信長(吉法師)が、織田弾正忠家の家督を継ぐ立場(嫡男)として育てられることになります。

信長の主な家族構成は以下の通りです。

続柄人物名歴史的な関係性
織田信秀経済力と武力によって織田弾正忠家を急成長させた傑物。
土田御前信長、信勝、お市の方らの生母。人物像の詳細は史料不足で不明。
織田信広庶長子。一時期、敵方(斎藤氏など)に内通する動きを見せるも、のちに降伏。
織田信勝(信行)同母弟。家臣団の一部の支持を集め、信長と激しい家督争いを展開。
お市の方浅井長政や柴田勝家に嫁いだことで知られる、信長の同母妹。
正室濃姫(帰蝶)美濃の斎藤道三の娘。織田と斎藤の和睦のために嫁いだ政略結婚の妻。

家督を継ぐ立場にあった信長ですが、その周囲は必ずしも安定していませんでした。

兄の信広は一時期、織田家と敵対する勢力(美濃の斎藤氏など)と結ぶような動きを見せましたが、これは単純に「反乱」と断定できるようなものではなく、当時の複雑な権力バランスが影響していたと考えられています。

また、同母弟の織田信勝(信行)を支持する家臣たちとの間では、のちに織田家を二分する激しい家督争い(稲生の戦いなど)へと発展していくことになります。

織田信長が「大うつけ」と呼ばれた幼少期の行動

信長の幼少期から青年期を語るうえで、よく知られているキーワードが「大うつけ(大馬鹿者)」という呼び名です。

太田牛一が記した史料『信長公記』によると、少年・青年時代の信長は、以下のような当時の武家社会の礼儀や常識からは外れた行動を繰り返していました。

  • 髪を茶筅(ちゃせん)のように巻いて色糸で結ぶ
  • 袖を外した奇妙な湯帷子(ゆかた)を着用し、太刀をぶら下げる
  • 町中を歩きながら、柿や瓜、立ったまま餅を買い食いする
  • 身分の低い若者たちと日常的に付き合う

教育係(守役)であった老臣・平手政秀(ひらて まさひで)は、主君の嫡男にあるまじき振る舞いを何度も諫めたと伝えられています。周囲の家臣や国人衆の中には「織田家はあのうつけ者が継いだら終わりだ」と不安視する声もありました。

なお、後世の創作物などでは「少年時代から黒母衣衆・赤母衣衆となる仲間たちと泥まみれで遊んでいた」「幼少期から最新兵器の鉄砲を熱心に訓練していた」といったエピソードが描かれることがありますが、これらを裏付ける当時の史料はありません。

信長が鉄砲を深く好み、大規模に運用するようになるのは後年のことであり、少年時代の鉄砲訓練記録は存在しません。

現在の研究における多角的な視点

現在の研究では、この「大うつけ」と呼ばれる奇行について、単なる変人という枠を超えた、以下のような視点から考察がなされています。

  1. 周囲の勢力を油断させるためのパフォーマンス説:織田家の内部は、前述の通り弟の信勝を支持する派閥や、周辺の敵対勢力に常に狙われていました。あえて「無能なうつけ」を演じることで、暗殺や早期の権力闘争を回避しようとしたという見方です。
  2. 既存の権威や身分にとらわれない独自の価値観:古い儀礼や形式的な作法よりも、実利や合理性を最優先する性格が、当時の保守的な武家社会の目には「うつけ」と映ったのではないかという指摘です。

のちに美濃の斎藤道三(さいとう どうさん)と正徳寺で会見した際、それまでの「うつけ姿」から一転して、完璧な礼法と最高級の正装を身にまとって現れ、道三を驚かせたエピソードは有名です。

信長は、「常識を知らない」のではなく、「既存の常識に縛られない価値観を若い頃から持っていた」人物であったと解釈されています。

【俗説検証】織田信長の血液型A型説と「第六天魔王」の背景

JR岐阜駅北口の「信長ゆめ広場」に立つ金の信長像は、岐阜市制120周年を記念して建立されたシンボルです。黄金に輝く勇壮な姿で、岐阜を訪れる人々を迎えています。

ここでは、インターネット上や読み物などでよく見かける、信長に関する有名な噂や俗説について、歴史的な背景を交えて詳しく検証していきましょう。

血液型は本当に「A型」だったのか?

「織田信長の血液型はA型だった」という記述を目にすることがあります。これは昭和期の雑誌の企画や、民間の血液型研究家らによって紹介された推測が中心となっています。

結論から言うと、織田信長の血液型がA型であるというのは、学術的に確定した事実ではありません。

鑑定に用いられたとされる遺品や血判状が、本当に本人の血液によるものか(当時は他人の血を借りたり、動物の血を混ぜたりするケースもあった)、あるいは数百年の経年劣化によって正確な判定が出ない場合が多いため、あくまで「歴史ファンの間で楽しまれているエンタメ的な俗説」として捉えるのが適切です。

「第六天魔王」という署名に隠された外交上のやり取り

信長の苛烈な行動を象徴する言葉として有名な「第六天魔王(だいろくてんまおう)」。仏教の修行を妨げる魔物という意味ですが、信長は本当に「俺は残虐な魔王だ!」と自ら好んで名乗っていたのでしょうか?

これには、当時の武田信玄との間で交わされた、明確な書状の背景が存在します。

元亀3年(1572年)、武田信玄が信長を包囲するために軍を動かした際、信玄は信長に宛てた書状の署名に「天台座主沙門信玄(てんだいざすしゃもんしんげん)」と記しました。これは「自分は仏教の最高指導者(天台座主)を保護する正義の立場である」という、信長に対する痛烈な外交上の牽制(デモンストレーション)でした。

これに対して、比叡山などの宗教勢力と激しく対立していた信長は、返書の中で自らの署名を「第六天魔王信長」と書いて送ったのです。

つまり、「お前が仏教の守護神を気取るなら、俺はその仏法を破壊する魔王になって相手をしてやる」という、信長一流の強烈な外交的皮肉、あるいはユーモアを含んだ反論であったわけです。普段から好んで自称していたわけではない、というのは歴史を読むうえで非常に興味深いポイントですね。

織田信長の血脈と、現在も残るゆかりの地

信長の生涯は、天正10年(1582年)の「本能寺の変」によって49年という若さで幕を閉じました。しかし、彼の血筋や織田家の家系は江戸時代を通じて大名や高家(こうけ)として存続し、現代に至るまで続いています。

現代においても、フィギュアスケートのトップ選手として活躍された織田信成氏がメディアで広く知られていますが、現代の科学(DNA証明など)で厳密に確定されたわけではないものの、「織田家の系譜を伝える家系」として歴史ファンからも親しまれています。

聖地巡礼!現在も愛知県に残る信長ゆかりの地

この記事を読んで「信長が生まれた空気感を肌で感じてみたい!」と思った方のために、現在も愛知県内に残るおすすめの歴史スポットをご紹介します。

① 勝幡城跡

勝幡駅前 織田信秀・土田御前と幼少期の信長像は、父織田信秀と母土田御前に抱かれた幼少期の織田信長を表現し、信長生誕の地として伝わる地域の歴史を伝えています。

信長の出生地として有力視されている勝幡城は、残念ながら建物そのものは現存しておらず、現在は城址碑や案内板が整備されているのみです。

しかし、名鉄津島線「勝幡駅」の前には、「信長(吉法師)を抱く父・信秀と母・土田御前」のブロンズ像や、当時の勝幡城の推定復元模型が設置されており、歴史ファンの絶好の撮影スポットになっています。

周辺の地形を歩くだけでも、河川を流通網として活かした織田弾正忠家の環境を体感することができます。

  • 住所:〒490-1323 愛知県稲沢市平和町城之内
  • アクセス:名鉄津島線「勝幡駅」から徒歩約10分

② 熱田神宮・信長塀

勝幡城で生まれた信長が、青年期に大飛躍を遂げるきっかけとなったのが、1560年の「桶狭間の戦い」です。信長はこの戦いの直前、熱田神宮に戦勝祈願を行い、見事今川義元の大軍を打ち破りました。

その御礼として信長が熱田神宮に奉納したのが、現在も境内に残る「信長塀(のぶながべい)」です。土と瓦を何層にも強固に積み重ねたこの土塀は、西宮神社(兵庫)、三十三間堂(京都)と並ぶ「日本三大土塀」の一つとして広く一般に紹介されています。戦国時代を今に伝える貴重な遺構を間近で見ることができます。

「勝幡城跡(誕生の有力地)」から「熱田神宮(飛躍の地)」へとセットで巡るルートは、信長の人生の始まりと天下への第一歩を一度に体感できるため、非常におすすめです。

  • 住所:〒456-0031 愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1
  • アクセス:名鉄名古屋本線「神宮前駅」から徒歩約8分

まとめ|織田信長の生まれと最新研究

歴史研究は、新しい史料の発掘や既存史料の精査によって、日々アップデートされています。今回のポイントを振り返ってみましょう。

  • 信長の誕生日は天文3年(1534年)5月12日(または5月28日)
  • 出生地は「勝幡城」とする説が現在もっとも有力だが、那古野城説を並記する研究書もある
  • 河川に囲まれた平城・勝幡城近辺(津島湊)の環境が、信長の経済的な思考に影響した可能性が指摘されている
  • 「大うつけ」や「第六天魔王」の逸話には、当時の外交上の牽制や独自の価値観に基づいた背景があった

幼少期の環境や家族との関係性を知ることで、なぜ彼が既存の価値観にとらわれない武将になれたのか、その背景がより深く見えてきますよね。

戦国時代の出来事や学説は今後も新たな発見によって更新される可能性があります。さらに正確な情報や展示を楽しみたい方は、愛知県内の博物館や各自治体の公式資料、専門家による最新の研究成果などもあわせてチェックしてみてくださいね!

それでは、また次回の歴史散歩でお会いしましょう。

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