織田信長は相撲興行の始祖?安土城で始まった群衆統治

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織田信長は相撲興行の始祖?

織田信長といえば、鉄砲の大量投入や楽市楽座など、戦国時代の「革命児」として有名ですが、実は戦国時代における相撲の大規模興行化や、武将による人材登用の場としての活用に大きな影響を与えた人物でもあります。

信長と相撲のつながりを深く調べていくと、単なる趣味の領域を超え、娯楽・人材登用・家臣統制を兼ねた大規模な興行として機能していた織田政権の権威を示す政治的イベントの側面が見えてきます。

「なぜ信長はそこまで相撲を重視したのか」
「現在の大相撲の儀式や伝統と、どのような歴史的関係があるのか」

この記事では、単なる逸話の紹介にとどまらず、戦国時代の政治・軍事・組織マネジメントの観点から、信長が仕掛けた相撲興行の実態を、一次史料『信長公記(しんちょうこうき)』の記述をベースに分かりやすく解説します。

この記事で分かること
  • 織田信長が相撲を重用した組織論的背景
  • 常楽寺・安土城相撲の実態と恩賞戦略
  • 現代大相撲へ繋がる制度の史実と誤解
  • 名物茶器「平蜘蛛」と相撲の奇妙な縁
目次[ページ内リンク]

織田信長の常楽寺相撲と実力主義の人材登用

相撲のぼり

織田信長が主催した代表的な大規模上覧相撲(じょうらんずもう:天下人や天皇などの前で行う相撲)として歴史に深く刻まれているのが、近江国(現在の滋賀県)の常楽寺において催された「常楽寺相撲会」です。

当時の信長は、足利義昭を奉じて上洛を果たし、室町幕府を再興して京都周辺の政治的支配権を掌握した極めて象徴的なタイミングにありました。メディアのない時代において、民衆や国人衆(こくじんしゅう:地方の有力武士)に自らの勢力を直感的に理解させるには、視覚的かつ圧倒的なイベントが効果的だったのです。

開催日を巡る歴史学的議論と判定役の存在

常楽寺相撲の正確な開催日は、『信長公記』の記述や当時の暦の解釈をめぐって研究上議論があります。ただし、元亀元年(1570年)頃、信長が近江で大規模な上覧相撲を開催したこと自体は確認されています。

この常楽寺相撲において、信長は木瀬蔵春庵(きせ ぞうしゅんあん)という人物を判定役として配置し、勝敗を裁定させました。中世の相撲においても勝敗を判定する役割は存在していましたが、このように大規模な興行の中で専門的な判定役を明確に置いたことは、後世の相撲運営にもつながる重要な要素の一つとなりました。

力量を評価された力士たちと側近による運営

この大会で抜群の実力を示し、勝ち残ったのが鯰江又一郎(なまずえ またいちろう)と青地与右衛門(あおち よえもん)の2名でした。彼らの力量に深く満足した信長は、その場で極めて破格の恩賞を与えて家臣団に登用しました。

  • 破格の恩賞: 金銀で贅沢な装飾が施された「熨斗付(のしつき)の太刀と脇差」を下賜。
  • 敗者への評価: 敗れはしたものの、独創的で熱い取り組みを見せて観客を沸かせた深尾又四郎(または又次郎)に対し、信長はその表現力を評価して衣服を直接与えた。

鯰江又一郎や青地与右衛門らはこのように相撲の実力を評価され、恩賞を与えられました。一方、この大規模な相撲大会の運営そのものは、織田信澄や堀秀政ら、信長の側近・有力家臣たちが担当しました。

なお、ここで登用された青地与右衛門は、後に織田家で重用され、馬術や管理能力を評価された人物として知られています。天正9年(1581年)に京都で開催された一大軍事パレード「京都御馬揃え(おうまぞろえ)」の際にも、その高い管理能力を活かして運営に関わりました。

家柄や血縁が重視される戦国社会において、「身分に関わらず、実力や大衆を魅了する力さえあれば即座に評価される」という実力主義の側面を、相撲というフェアな舞台を通じて世間に見せつけたといえます。

織田信長流・安土城相撲の組織論と恩賞戦略

安土城天主跡は、織田信長が築いた安土城の中心部です。壮大な天主は現存しませんが、石垣や礎石が残り、天下統一を目指した信長の威光を今に伝えています。

天正年間に入ると、信長の相撲興行はその規模や運営組織において、さらなる発展を遂げました。舞台は、織田政権の象徴たる「安土城」です。

1,500人規模の熱狂と「力士のダイバーシティ」

天正6年2月29日(1578年4月6日)、信長は安土城において近江国から300名もの力士を動員した相撲大会を挙行しました。この大会の大きな特徴は、参加した力士たちの出自や名前の多様性(ダイバーシティ)にあります。

記録によれば、参加者の3分の1は「東馬二郎」「日野長光」「大塚新八」といった武士階級と推測される名前を持つ一方で、名字を持たない庶民階層である「平蔵」「助五郎」や、寺院系の「円浄寺」「地蔵坊」、さらには「たいとふ」「づおう」「あら鹿」といった風変わりな名前が入り乱れていました。信長はここから実力主義で23名を選抜して競わせ、優れた取り組みを見せた日野長光には豪華な扇を授与しました。

さらに同年8月15日(1578年9月16日)には、規模を拡大し、近江および京都から総勢約1,500人もの力士を集めた、多数の見物人を集めた大規模イベントが安土城で催されました。

「相撲奉行」に見る巨大組織の管理術

これほど大規模な大会になると、対戦の組み合わせ、多数におよぶ観衆の誘導、治安維持、勝利者への恩賞の配布など、実務処理が爆発的に増加します。そこで信長は、自らの信頼するエリート側近たちを運営責任者(相撲奉行・おとりもち)に指名し、組織的に運営させました。

奉行・おとりもちの顔ぶれ主な役割とマネジメントの特徴
織田信澄(おだ のぶずみ)信長の甥であり、一門衆の重鎮。主に全体の統括や警備を担当。
堀秀政(ほり ひでまさ)「名人久太郎」と称された行政能力の天才。大会の円滑な進行を差配。
万見仙千代(まんみ せんちよ)信長の最側近。近侍として細かな恩賞の管理や連絡調整を担当。
蒲生氏郷・布施藤九郎 など現場の力士管理、進行バックアップ、および取次(おとりもち)を厳密に配置。

この天正6年8月大会では、取り組みが「小相撲(五番打)」と「大相撲(三番打)」に体系化されていました。小相撲は一般参加者や陪臣によるもので、大相撲は実力者による番組編成でした。この大会では、当時最強と謳われた阿閉貞大(あつじ さだひろ)と永田正貞(ながた まささだ)の対戦が組まれ、予想を覆して正貞が勝利したことで、会場全体が大きな興奮に包まれました。

信長はこの大会で素晴らしい勝負を見せた大塚新八、東馬二郎など14名の力士をその場で新規雇用し、裃(かみしも)、太刀・脇差のほか、なんと「領地100石宛および私邸」という、破格の待遇を直接与えたのです。

豊臣政権へと響き合う恩賞戦略と帝王学

このような信長による恩賞の支払い方は、のちに天下人となった豊臣秀吉の人事・恩賞戦略とも強く響き合っています。

秀吉が永禄元年の岩倉攻めの一番槍の武功により15貫文の給地という恩賞を初めて得たように、織田・豊臣政権は明確な行動成果や、命を賭した武功に対して果断に経済的価値(土地や金銭)を支払うことで組織の求心力を高めました。

信長が土地の不足を補うために、時に一国に匹敵する価値を持つ茶器を恩賞とし、あるいは安土の相撲において領地100石を支払ったのは、人間の功名心とモチベーションを最大限に喚起するための合理的な経営管理手法でした。

信長はこの大会の翌月にも安土城で相撲大会を開催し、長男の信忠や次男の信雄に見物させていますが、これは自身の後継者に対して「実力を見極め、恩賞によって人心を掌握する」という統治者としての帝王学・組織マネジメントを実地で教育するための高度なデモンストレーションであったと考えられています。

織田信長の相撲から現代へ繋がる制度と史実

現在我々が目にする大相撲の競技システムや興行演出には、信長が実施した上覧相撲に起源の逸話を持つものが多く存在します。しかし、そこには歴史的な事実と後世の創作(俗説)が混ざり合っているため、最新の歴史認識に基づいて正しく整理していく必要があります。

判定役の明確化と「人土俵」からの脱却

現代の大相撲に欠かせない「土俵」や「行司」ですが、これらが現在のような形(円形に俵を据える土俵、専門職としての行司制度)として完成するのは、江戸時代中期以降の「勧進相撲(かんじんずもう)」の時代です。

中世相撲にも勝敗を裁定する役割(行司の前身となる存在)はすでに存在しており、信長がゼロから行司制度を創始したわけではありません。信長の相撲興行では、勝敗を裁定する役割が明確に置かれ、観戦型イベントとしての運営が進められました。 それまで無秩序になりがちだった武芸相撲を、ルールと境界を持つ「観せる興行」として運営する仕組みへと整えていき、近世大相撲の確立へとつながる重要なステップとなったのです。

当時はまだ地面に俵を埋めた土俵はなく、多数の観衆が二重三重に円を作って取り囲む「人垣(ひとかき)」がそのまま境界線となる「人土俵(ひとどひょう)」でした。その曖昧な境界線の中で、専門の判定役を置いて勝敗を厳格に裁定させた試みは、非常に大きな意義を持っています。

「弓取り式」の起源に関する諸説と歴史

大相撲の結びの一番の後に行われる伝統的な「弓取り式」。この起源については諸説あります。

織田信長の常楽寺相撲において、並み居る腕自慢を次々と倒した宮居眼左衛門(みやい めざえもん)という力士が活躍し、その強さに深く感動した信長から名弓「重藤の弓(しげどうのゆみ)」をその場で授かったという逸話は非常に有名です。このエピソードは、後世の江戸時代に書かれた相撲の伝書(『古今相撲大全』など)において、弓取り式の始まり(濫觴)として語り継がれることになります。

弓取り式については、信長の常楽寺相撲における宮居眼左衛門と重藤の弓の逸話が起源として語られることがあります。ただし、現在の弓取り式がこの出来事から直接成立したと証明する一次史料はありません。一部で語られる「見物人が殺到して圧死者が出るのを防ぐため、退場時間を分散させる目的で信長が考案した群衆管理のエピソード」などは史実として確認できない後世の俗説です。

弓取り式は、勝者の栄誉を称え、神聖な恩賞(弓)に対する感謝の念や邪気払いを体現した作法であり、古代から伝わる「勝ち舞」の伝統などと融合しながら、江戸時代以降の相撲儀礼の中で現在の形へ整えられたと考えられています。

中世の武芸相撲から近世・現代の興行相撲へと至る変遷は、以下のステップで整理することができます。

STEP
武芸相撲と人土俵の時代

中世〜戦国時代(信長以前)

実戦訓練としての側面が強く、多くの見物人を集めた大規模イベントであり、「人垣(人土俵)」が境界線となっていました。物理的な境界がないため混乱も多かった時代です。

STEP
判定役の明確化と大規模上覧相撲

元亀〜天正年間(織田政権期)

信長が木瀬蔵春庵などの判定役を明確に配置。1,500人規模の力士を集めた興行を通じて、相撲を「観戦型イベント」へと運営を整えていきました。

STEP
弓の伝承と相撲儀礼の芽生え

天正年間〜江戸初期

信長から宮居眼左衛門へ贈られた「重藤の弓」の逸話など、恩賞への感謝を示す作法が後世の伝書に記録され、後の相撲儀礼の精神的ルーツとなっていきます。

STEP
俵土俵の完成とプロ興行化

江戸中期(延宝・天和〜享保年間)

神社仏閣の建立費用を集める「勧進相撲」として定着。地面に俵を埋める現代の「土俵」や、専門職としての「行司制度」が確立し、伝統スポーツとして完成しました。

織田信長と平蜘蛛が結ぶ相撲の美学

「織田信長 相撲」を検索する知的欲求の高いユーザーにとって、関連キーワードとして高い頻度で出現する「平蜘蛛(ひらぐも)」という言葉は、戦国時代の文化的・政治的象徴である茶器を巡る死闘と、大相撲におけるマニアックな技術用語という、全く異なる二つの領域における「隠れた結節点」として非常に興味深い論点を提供しています。

松永久秀と「平蜘蛛」茶釜を巡る史実と伝説の解剖

歴史的な文脈における「平蜘蛛」とは、戦国大名・松永久秀が秘蔵した名物の茶釜「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」を指します。

この茶釜は、下野国佐野庄の天明(現在の栃木県佐野市)で鋳造されたとされ、地を這うように極めて低く伏せた蜘蛛のような特異な形状をしていたことからその名が付けられました。久秀は信長に臣従した際、名物茶入「九十九髪茄子(つくもなす)」などを献上したものの、この平蜘蛛だけは頑なに手元に置き続け、信長からの再三の譲渡要求を拒絶し続けました。

天正5年(1577年)10月、信長に対する二度目の謀反を起こした久秀は、信長の子である信忠が率いる織田の大軍に居城・信貴山城を包囲されました。信長は「平蜘蛛を差し出せば助命する」という条件を提示しましたが、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首の二つは、信長公にお目にかけることはない。粉々に打ち壊す」と言い放ち、城と運命を共にしたとされています。

この最期を巡り、後世の軍記物(『川角太閤記』など)は「久秀が釜に火薬を詰め、自らの身体ごと大爆発して果てた」という劇的な「爆死」の伝説を語り、これが広く流布しました。しかし、一次史料である『信長公記』や『多聞院日記』には爆死の記述は存在せず、単に「松永父子が切腹し、自ら火を放って焼死した」と記されています。

『山上宗二記』の記述にあるように、実物は落城時の火災によって物理的に失われた(焼亡した)と考えるのが学術的には最も穏当です。一方で、柳生家の家譜『玉栄拾遺』には、久秀が砕いた平蜘蛛は実は精巧な偽物であり、本物は柳生松吟庵に密かに譲渡されていたというロマン溢れる異説も残されています。

大相撲における伝統技術「平蜘蛛型仕切り」の戦闘力学

一方、大相撲の技術領域において「平蜘蛛」とは、仕切りの際に極限まで重心を下げて身構える伝統的な技術フォーム「平蜘蛛型仕切り」を意味します。

この独特な仕切り方は、明治から大正時代にかけて活躍し、その圧倒的な粘り強さと多彩な技術から「名人」と称賛された小兵の名関脇・玉椿憲太郎(たまつばき けんたろう)ら、低い姿勢から立つ技巧派力士によって知られるようになった独特の立ち合い姿勢です。

玉椿は自らの致命的な体格差(159cm、90kg)を克服するため、仕切りの際に体を完全に地表へと低く沈め、相手の懐へと下から鋭く潜り込むフォームを用いました。当時は現代と異なり仕切り線が土俵になく、互いが頭を付き合わせる姿勢から立ち合う必要があったため、この低さは強力な武器となったのです。

この「平蜘蛛仕切り」は、のちに伊勢ヶ濱部屋の昭和の技能派・幡瀬川邦七郎(はたせがわ くにしちろう)へと受け継がれました。また、近年の系譜として直接つながるわけではありませんが、日馬富士の低く鋭い立ち合いは、平蜘蛛型仕切りを連想させる相撲として語られることがあります。

まとめ|織田信長が遺した相撲史への影響

織田信長と相撲の関係性は、一介の戦国武将の個人的な趣味嗜好の領域を超えた、戦国期から近世への過渡期における重要な「興行の近代化・システム化」のプロセスを内包していました。

神事としての原始相撲、武士の戦闘訓練としての武家相撲の系譜を引き継ぎながらも、それを「娯楽・人材登用・家臣統制」を高度に融合させた観戦型イベントへと昇華させた信長の影響は小さくありません。大規模な興行マネジメントの体系化、専門的な判定役の配置、そして後世の弓取り式の精神的ルーツとなった恩賞の伝承など、その足跡は多方面に及びます。

常楽寺での実力主義を内包した恩賞の授与、安土城という巨大な空間での1,500人規模の興行、側近(相撲奉行)による組織的なイベント管理。これらの試みがあったからこそ、相撲は戦乱の世において新たな社会的価値を獲得し、江戸時代の勧進相撲、実質的なプロ興行、そして現代の「国技・大相撲」へと洗練されながら受け継がれていくための歴史的土壌が耕されたといえます。

今、私たちが目にする大相撲の熱気と伝統。その底流には、450年前に安土の地で見物人を熱狂させた、織田政権による大規模興行のプロデュースセンスが、確かな歴史のバトンとして息づいているのです。

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