織田信長の美濃攻略は城攻めではない|稲葉山城が落ちた本当の理由

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織田信長 美濃攻略

織田信長の「美濃攻略」と聞くと、稲葉山城をめぐる激しい攻防戦や、斎藤龍興との対立、竹中半兵衛や美濃三人衆の裏切り、さらには墨俣一夜城の劇的な逸話など、さまざまなエピソードが思い浮かびますよね。

しかし、歴史の授業やドラマだけでは、「なぜ信長はこれほど美濃にこだわったのか」「難攻不落の稲葉山城はどうやって落城したのか」といった時系列や具体的な戦略が、少し分かりにくく感じられることも多いのではないでしょうか。

実は、信長の美濃攻略において、稲葉山城は「攻城戦そのもの」よりも、長年の調略と兵站(へいたん)戦略によって勝敗が決した戦いでした。そのプロセスをつぶさに見ていくと、信長がなぜ後に天下統一へ向かうことができたのか、その天才的な「戦略思想」の全貌が見えてきます。

この記事では、斎藤道三との同盟から、森部・十四条の戦い、新加納の戦い、小牧山城への遷都、稲葉山城占拠事件、堂洞合戦、長良川の戦い、そして稲葉山城の陥落から「天下布武」へと至る激動の流れを、最新の歴史検証を交えながら分かりやすく整理・解説していきます。

この記事で分かること
  • 信長が美濃を狙い続けた経済的・地政学的理由
  • 前半戦(森部・十四条・新加納)のリアルと軍記物の虚実
  • 小牧山城遷都による「面の支配」への戦略転換
  • 竹中半兵衛の城占拠と美濃三人衆の調略
  • 美濃平定が「天下布武」の出発点となった背景
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織田信長による美濃攻略の背景と斎藤道三の遺産

鷺山城跡は、戦国時代に美濃国の重要な拠点として利用された城跡です。斎藤道三ゆかりの城として知られ、現在は歴史を伝える公園として親しまれています。

まずは美濃攻略が始まった背景から見ていきましょう。ここを押さえることで、信長が足かけ8年もの歳月を費やして美濃を狙い続けた本当の理由が見えてきます。

東西交通の要衝・美濃の圧倒的価値

戦国時代の美濃国(現在の岐阜県南部を中心とする地域)は、東西の交通を握る極めて重要な戦略拠点でした。

京と東国を結ぶ主要ルートを押さえられるだけでなく、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)による豊かな水運も利用できたため、軍事面のみならず経済・流通の面でも巨大な価値を持っていたのです。

当時の戦国大名にとって、領土拡張の本質は「流通と商業の支配権の確保」にありました。

美濃はその条件を完璧に満たす土地であり、信長の父・織田信秀の代から、織田家と美濃の斎藤氏は国境地帯で血で血を洗う衝突を繰り返していました。信長にとって美濃攻略は、突然思いついた野心ではなく、織田家にとって長年の悲願だったのです。

斎藤道三との同盟と「大うつけ」の会見

激しく争っていた両家ですが、天文17年(1548年)頃に和睦が成立。翌年、道三の娘である濃姫(帰蝶)が信長に嫁ぐことで政略結婚による同盟が結ばれました。

ここで有名なのが、正徳寺における道三と信長の会見です。当時、信長は「大うつけ」と呼ばれて周囲から侮られていましたが、実際に会った道三はその鋭い本質を即座に見抜いたと伝わっています。

後世の軍記では、道三が「やがて我が子は信長の家臣になるだろう」と語ったと伝えられます。この逸話は信長の一次史料である『信長公記』には記載がなく、後世の創作・脚色の可能性が高いと考えられていますが、道三が信長の器量をいち早く認めていた可能性を示す象徴的なエピソードとして語り継がれています。

長良川の戦いによる暗転

しかし、この安定は長く続きません。弘治2年(1556年)、美濃国内で道三と嫡男の斎藤義龍が激突する「長良川の戦い」が勃発します。

信長は義父・道三を救うべく急ぎ出陣したものの、救援は間に合わず道三は敗死。美濃の実権は信長の宿敵となる斎藤義龍の手へと渡ってしまいました。

この時、信長自身が直接義龍軍と交戦して大敗したわけではありませんが、同盟者を失ったことで尾張の北方は再び緊迫します。

義龍は優秀であり、統治能力も高かった武将として知られています。美濃国内の国衆を見事にまとめ上げた義龍が健在である間、信長は美濃へ決定的な打撃を与えることができず、国境線での膠着状態を強いられることになります。

美濃攻略に転機!斎藤義龍の急死と織田軍の侵攻

美濃攻略が本格的に動き出す最大の転機となったのが、永禄4年(1561年)5月の斎藤義龍の急死です。屈強なライバルの早すぎる病死は、信長にとって大きな好機となりました。

義龍の後を継いだのは、当時まだ若年であった斎藤龍興(たつおき)です。

龍興は決して暗愚な人物ではありませんでしたが、父ほどの圧倒的な求心力はなく、独自の軍事力を持つ安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全ら有力国衆(後の美濃三人衆)を完全に統制することができませんでした。

森部の戦い

尾山神社の前田利家公像は、加賀藩祖である前田利家を顕彰する銅像です。勇壮な姿で境内に立ち、加賀百万石の礎を築いた武将の功績と歴史を今に伝えています。

信長はこの政変を見逃さず、義龍の死から間もなく木曽川を渡り、美濃へと侵攻します。これが「森部の戦い」です。

斎藤軍は長井衛安や日比野清実らを将として迎撃に出ますが、勢いに乗る織田軍はこれを撃破。この戦いで特に大きな功績を挙げたのが、当時、不祥事によって信長から勘当(出仕停止)されていた若き日の前田利家でした。

後世の軍記(『甫庵信長記』など)では、利家が敵の猛将・足立六兵衛を討ち取り、この功績で信長への復帰を果たしたと劇的に伝えられます。史実としての正確性には諸説あるものの、利家がこの戦い前後を機に信長の信頼を取り戻し、前線へ復帰した可能性は高いと考えられています。

十四条の戦いで見えた苦戦

森部の戦いで足がかりを得た織田軍ですが、美濃攻略はここから泥沼の長期戦へと突入します。続く「十四条の戦い」では、斎藤龍興が自ら出陣して激しい反撃を仕掛けてきました。

この戦いで織田軍は、一門の有力武将である織田勘解由左衛門(広良)が討ち死にするという大きな損失を被ります。

美濃は木曽三川が複雑に入り組む天然の要害であり、地理を熟知した斎藤軍の防衛網は極めて強固でした。信長はここで一時撤退を余儀なくされ、美濃を武力だけで即座にねじ伏せることの難しさを痛感させられることになります。

美濃攻略で足踏み?小牧山城への遷都

戦国大名の多くは、一度大敗を喫すると数年間は動けなくなるものですが、信長の本領は「敗北からの修正能力」にありました。

尾張から美濃へ:小牧山城遷都の真意

小牧山城は、1563年に織田信長が築いた城です。美濃攻略の拠点として重要な役割を果たし、現在は歴史館や展望施設が整備された市民の憩いの場となっています。

永禄6年(1563年)、信長はそれまでの本拠地であった清洲城を捨て、美濃国境に近い小牧山城へと拠点を移すという大胆な決断を下します。

戦国時代において本拠地を移すことは、国家の命運をかけた大事業です。清洲城が尾張国内を統治するための拠点だったのに対し、小牧山城は「美濃を攻略するための一大前線基地」でした。前線へ本拠を近づけることで、兵糧の補給線(兵站)が短縮され、軍勢の移動速度や情報の伝達効率が劇的に向上したのです。

近年の発掘調査では、一部には当時としては先進的な石垣も用いられていたことが判明しており、信長がここを長期的な総力戦の司令部として位置づけていたことが分かっています。

【清洲城と小牧山城の戦略的役割の比較】

拠点位置役割特徴
清州城尾張西部尾張の国内平定・統治防御重視の守りの城
小牧山城尾張北部・美濃国境付近美濃攻略のための総司令部・前線基地迅速な出兵を可能にする攻めの城

新加納の戦い

小牧山城を拠点とした信長は再び大軍を率いて美濃へ侵攻しますが、ここで立ち塞がったのが「新加納の戦い」です。

後世の軍記では、この戦いで斎藤方の若き武将・竹中半兵衛(重治)が巧みな伏兵戦術(十面埋伏の計など)を用い、織田の大軍を大混乱に陥れたとドラマチックに描かれます。

実際の史料でそこまで具体的な戦術が裏付けられているわけではありませんが、織田軍が苦戦し、一時撤退に追い込まれたのは事実です。

また軍記では、この退却戦において、最後尾で敵の追撃を食い止める「殿(しんがり)」の見事な指揮を執り、壊滅の危機を救ったのが木下秀吉(後の豊臣秀吉)であったと伝えられています。

これらはいずれも後世の脚色が含まれる可能性が高いエピソードですが、信長が武力による正面突破で行き詰まっていた当時の状況をよく表しています。

斎藤家の内部崩壊――稲葉山城占拠事件

竹中氏陣屋跡の竹中半兵衛像は、名軍師として知られる竹中重治の姿を表した像です。優れた知略で豊臣秀吉を支えた功績をたたえ、戦国時代の歴史を今に伝えています。

武力攻めでの限界を感じた信長にとって、最大の追い風となったのは、身内である斎藤家自身の「内部崩壊」でした。その決定打となったのが、永禄7年(1564年)に起きた稲葉山城占拠事件です。

当主の斎藤龍興が側近ばかりを重用し、古参の重臣たちを軽視したことに不満を募らせた竹中半兵衛は、舅である安藤守就とともに、十数人ほどの少人数の部下を引き連れて稲葉山城へと入城。

あっさりと城内の主導権を握り、龍興を城から追放してしまったのです。

事件の背景(諸説)現代の研究における視点
諫言・報復説酒色に溺れる龍興を諌めるため、あるいは個人的な侮辱に対する対抗措置。
権力闘争説単なる個人の反発ではなく、斎藤家中の派閥対立や重臣層によるクーデター。

いずれの説にせよ、この事件が天下に与えた衝撃は凄まじいものでした。金華山の山頂にそびえ立つ難攻不落の要害・稲葉山城が、内部からの身内の手によって簡単に乗っ取られたという事実は、斎藤政権の求心力が完全に底をついていることを露呈してしまったのです。

半兵衛は半年ほどで城を龍興に返還したとされていますが、信長はこの報告を受け、斎藤家を切り崩すための次なる工作を確信しました。

どれだけ立派な城があっても、支える人間の心が離れていれば意味がない――これこそが、後の陥落への伏線となります。

外堀を埋める「面」の戦略――堂洞合戦と墨俣砦

ここから信長は、城を力任せに落とそうとする「点」の戦いから、周辺地域を調略して孤立させる「面」の戦略へと完全にシフトします。

堂洞合戦と中濃地方の制圧

信長が目をつけたのは、稲葉山城の背後に位置する「中濃地方」でした。ここを押さえれば、稲葉山城への兵糧の搬入や、東側からの支援ルートを完全に遮断できます。

永禄8年(1565年)、信長は中濃の有力国衆である加治田城主・佐藤忠能の調略に成功。これに激怒した斎藤龍興・岸信周(堂洞城主)らとの間で激しい戦闘となったのが「堂洞合戦(どうほがっせん)」です。

信長は激戦の末に堂洞城を落とし、周辺の国衆へ「織田に味方すれば安泰、斎藤にしがみつけば破滅」という強烈なメッセージを植え付けました。こうして稲葉山城の「外堀」は徐々に埋まっていったのです。

墨俣一夜城の虚実

墨俣一夜城は、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が短期間で築いたと伝わる城です。美濃攻略の足掛かりとなり、秀吉出世の逸話を今に伝える歴史スポットとして親しまれています。

美濃侵攻のシンボルとして語られる「墨俣一夜城」も、この一連の拠点構築戦略の一環です。

「木下藤吉郎が一晩で巨大な城を完成させた」という伝承は非常に有名ですが、現代の歴史研究において、これがそのまま史実であったとは考えにくいとされています。

資材の運搬や湿地帯という地形を考慮すれば、一晩で本格的な城郭を築くのは現実的ではないからです。

しかし、「短期間で実用的な砦・前線基地を段階的に築き、木曽川流域の水運と補給線を確保した」というのは紛れもない事実です。

伝承の裏側にある、秀吉の優れた現場指揮能力や、着実に拠点を確保していく信長軍の合理的な兵站戦略こそが、美濃攻略において大きな意味を持っていました。

美濃攻略は調略で決着!美濃三人衆の内応と稲葉山城陥落

永禄10年(1567年)8月、信長が長年にわたって仕掛けてきた調略(政治工作)が、ついに最大の成果を結びます。

斎藤家の屋台骨であった西美濃の有力国衆――稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就(美濃三人衆)が、龍興を見限り、一斉に織田方に内応したのです。この際、信長は三人衆から人質を受け取っており、その事実が『信長公記』にもはっきりと記されています。

三人衆という最大の防御壁を失い、周囲の国衆からも見捨てられて完全に孤立無援となった稲葉山城に、もはや織田軍を押し返す力は残っていませんでした。

攻城戦の真実:自壊した難攻不落の城

最終局面において、織田軍による稲葉山城への包囲や、城下への焼き討ちといった攻撃(攻城戦)は実際に行われています。したがって「まったく城を攻めなかった」わけではありません。

しかし、稲葉山城は激しい総攻撃の武力によって力づくで落ちたというより、調略によって完全に孤立し、自壊に近い形で陥落したというのが、現在の研究に最も近い表現です。

どれほど急峻な地形で守られた山城であっても、兵糧、人員、そして何より家臣団の「心」という支えをすべて引き剥がされてしまえば、城はその機能を維持できません。

追い詰められた斎藤龍興は、城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へと亡命。こうして、織田家にとって2代にわたる宿願であった美濃攻略は、劇的な幕切れを迎えました。

まとめ|織田信長美濃攻略がもたらした「天下布武」への道

美濃を平定した信長は、すぐに井之口と呼ばれていた地を「岐阜」へと改名します。これは古代中国で周の文王が起ち天下を興した「岐山」にちなんだものと言われており、この頃から信長は「天下布武」の印章を本格的に使用し始めます。

「天下布武」の意味については、「武威を天下に布(し)く」「武家政権を広める」「武力で天下を平定する」など現代でも諸説ありますが、尾張・美濃のローカル大名という枠を超え、全国的な政治的覇権を志向した強い意思表示であったと考えられています。

【織田信長の美濃攻略・全タイムライン】

STEP
1556年:長良川の戦い

斎藤道三が敗死。織田軍は救援するも退却

STEP
1561年:斎藤義龍が急死 ─> 森部の戦い・十四条の戦い

一門の織田広良が討死

STEP
1563年:本拠地を小牧山城へ移転 ─> 新加納の戦い

苦戦と敗退を経験

STEP
1564年:稲葉山城占拠事件

竹中半兵衛ら十数人による政変。斎藤家の弱体化が露呈

STEP
1565年:堂洞合戦

中濃地方の制圧による「面の支配」の確立

STEP
1567年:美濃三人衆が内応 ─> 稲葉山城陥落、斎藤龍興が敗走

美濃攻略

信長の美濃攻略を振り返ると、決して天才大名による「連戦連勝の華やかな物語」ではありませんでした。数々の敗北や一門の戦死を経験し、地形の不利を悟ったからこそ、信長は「小牧山城への遷都」という兵站改革を行い、「調略」によって敵の支持基盤を切り崩す総力戦へと舵を切ったのです。

稲葉山城は「攻城戦そのもの」よりも、長年の調略と兵站戦略によって勝敗が決した戦いでした。敗北から貪欲に学び、軍事・外交・経済・調略を組み合わせたマクロな戦略を組み立てる――この美濃平定の8年間で培われた組織運営能力と戦略思想こそが、その後の信長が天下統一へと突き進むための、揺るぎない原動力となったのです。

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