織田信長の父 信秀の死因は疫病か|葬儀で始まる後継者戦争

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織田信長 織田信秀

織田信長の父である「織田信秀(おだのぶひで)」の死因は何だったのか、病気だったのか、それとも別の理由があったのか気になっている方は多いのではないでしょうか。

あわせて織田信秀の病状や没年、葬儀での「抹香投げつけ事件」の真相、墓の場所、信勝(信行)との家督争い、守役・平手政秀の切腹の理由なども知りたいところですよね。

信秀の死は、単なる一武将の病死にとどまらず、尾張国内の権力構造を大きく揺らし、その後の織田信長の生涯を決定づける転換点となりました。

この記事では、歴史史料や近年の研究動向をふまえ、織田信秀の死因を中心に、葬儀をめぐる諸説、次世代の家督争い、そして尾張統一へと続く影響までを分かりやすく解説していきます。

この記事で分かること
  • 織田信秀の死因と病気の実態
  • 没年に複数の説が存在する理由
  • 抹香投げつけ事件の真相
  • 信秀の死後に起きた尾張の権力闘争
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織田信長の父 信秀の死因|「疫癘(えきれい)」の記録と実態

勝幡駅前 織田信秀・土田御前と幼少期の信長像は、父織田信秀と母土田御前に抱かれた幼少期の織田信長を表現し、信長生誕の地として伝わる地域の歴史を伝えています。

まずは、織田信秀がどのような最期を迎えたのか、その死因の記録から見ていきましょう。

『信長公記』に記された「疫癘」での死去

戦国武将の最期というと、戦場での討ち死にや家臣の裏切りによる暗殺など、劇的なドラマをイメージする方も多いかもしれません。しかし、尾張随一の実力者であった信秀の最期は病死でした。

信秀の死について記した重要史料である『信長公記(しんちょうこうき)』には、信秀が「疫癘(えきれい)」によって死去したと記されています。神仏への祈祷やさまざまな治療を尽くしたものの、回復せずに亡くなったと伝えられています。

現代の医学的な病名は特定できない

ここで注意したいのは、「疫癘」という言葉の意味です。疫癘とは当時、特定の病名を指すものではなく、流行性の感染症や伝染病全般を意味する言葉でした。

そのため、現代医学の視点から「インフルエンザだったのか」「腸チフスや赤痢、天然痘だったのか」といった具体的な病名を特定・推定することはできません。あくまで「何らかの急激な流行病に感染した」ということまでが、史料から読み取れる事実です。

戦国大名と病気のリスク

当時は現代のような抗生物質やワクチンはなく、衛生環境も万全ではありませんでした。どれほど権力を持つ武将であっても、流行病は命に関わる最大の脅威だったのです。

さらに、当時の信秀は尾張国内の統一を進めつつ、駿河の今川氏や美濃の斎藤氏といった強敵と前線で戦い続けていました。絶え間ない軍事行動や外交交渉、一族内の統制などによる心身への重圧が積み重なり、体力が低下していたところに疫癘が重なった可能性は十分に考えられます。

織田信秀の没年論争|天文20年説と21年説

織田信秀の生涯をたどる上で、歴史研究者の間で長く議論が続いているのが「没年(亡くなった年)」についてです。

「3年間隠匿説」は成立しにくい

かつては、信秀の没年を「天文18年(1549年)」とする説があり、そこから「織田家は当主の死を3年間隠していた」という劇的な逸話が語られることがありました。

しかし、近年の一次史料研究(当時発給された文書の精査など)においては、信秀が天文19年(1550年)以降にも活動していた形跡が確認されているため、この3年間隠匿説は現代では成立しにくいと考えられています。

天文20年説と天文21年説の両説がある

現在、歴史学界において信秀の没年は、以下の2つの説が議論されています。

  • 天文20年(1551年)3月3日没 説
  • 天文21年(1552年)3月3日没 説

『信長公記』の記述をそのまま採用すると天文21年となりますが、近年は発給文書などの詳細な検討から、天文20年(1551年)3月3日没とする説が有力視されるようになってきています。

ただし、歴史学界全体で完全に一種類へと定説化しているわけではなく、現在も両方の可能性を視野に入れた研究が続けられています。

父の死因をめぐる葬儀と織田信長「抹香投げつけ事件」の謎

織田信秀の死後に行われた葬儀は、戦国史の中でも特に有名な場面の一つです。後の天下人となる織田信長が、父の位牌に向かって抹香を投げつけたという前代未聞のエピソードが伝わっているからです。

万松寺で執り行われた盛大な法要

信秀の葬儀は、織田家の菩提寺である万松寺(ばんしょうじ)で執り行われました。

当時の織田弾正忠家は豊かな経済力を持っていたため、多くの僧侶が集まり、規模の大きな法要が行われたと伝わります。

大名家の葬儀は、単なる追悼の場にとどまらず、その家の財力や権威を周囲に示す政治的なイベントでもありました。

信長と信勝:対照的な兄弟の振る舞い

この葬儀の席で周囲の注目を集めたのが、後継者候補である兄弟の振る舞いでした。

  • 織田信長(嫡男): 髪を乱し、正装もせずに粗野な姿で現れ、仏前に進むと抹香をつかみ取って位牌へ投げつけ、そのまま立ち去ったとされる。
  • 織田信勝(次男): 格式ある礼法に沿った正装(肩衣と長袴)を身にまとい、厳かに参列したとされる。

当時の価値観からすれば、信長の行動は大きな衝撃であり、周囲からは「大うつけ(愚か者)」としての評価を強めることになりました。

抹香投げつけの真意とは?

信長がなぜこのような行動を取ったのか、その真意については史料に明確な理由が記されていません。そのため、現在語られている理由はすべて後世の研究者や歴史家による解釈であり、主に以下のような諸説が存在します。

  • 父・信秀への複雑な感情の表れ: 尾張国内の対立や外交問題を未解決のまま残して逝った父への、怒りや苛立ちの裏返しとする説。
  • 家臣団への抗議・問題提起: 織田家が危機的状況にあるにもかかわらず、形式的な儀礼や盛大な葬儀に力を注いでいる家臣たちに対し、「今は形式にこだわっている場合ではない」と危機感を促すための演出だったとする説。
  • 信長自身の性格や計算: 周囲を油断させるため、あるいは自らの異端性をあえて強調するための政治的パフォーマンスだったとする説。

このように真意は謎に包まれていますが、この事件が織田家のその後の人間関係に大きな波紋を広げたことは間違いありません。

織田信秀没後の家督争い|弟 信勝(達成)との対立

織田信秀という強力な指導者が亡くなったことで、織田家内部では後継者をめぐる対立が本格化していきます。

信勝の実名:一次史料にみる「達成」「信成」

信長の弟は一般的に「信勝(のぶかつ)」や「信行(のぶゆき)」の名で知られていますが、これらは後世の系図などにみられる表記です。

現存する一次史料(本人が発給した文書など)では「達成(みちなり)」や「信成(のぶなり)」と署名している例が確認されるため、当時の実際の名は「達成」などであったと考えられています。

分裂する家臣団の動向

戦国時代は必ずしも嫡男がスムーズに家督を継げるわけではなく、家臣団の支持や本人の資質が重視されました。

葬儀での態度も含め、革新的で予測のつかない信長に対し、礼儀正しく保守的な信勝(達成)を支持する動きが生まれます。柴田勝家や林秀貞ら有力家臣の一部は信勝側につくこととなり、織田家は二つの勢力に分裂して内紛状態へと突入していきました。

この対立は、後に「稲生の戦い(いのうのたたかい)」という直接対決を引き起こし、最終的に信長が主導権を握るまで続くことになります。

織田信長周辺の苦悩と政変|平手政秀の切腹と織田信光の死

信秀の死後、尾張統一のプロセスにおいて、織田家にさらなる激震が走る出来事が相次ぎました。

平手政秀の切腹と背景にある諸問題

天文22年(1553年)、幼少期から信長を支え続けた守役であり、政治顧問でもあった平手政秀(ひらてまさひで)が自害(切腹)しました。

これについては、信長の奇行を改めさせるための「諫死(かんし)」とする話が有名です。しかし、近年の研究では、単なる個人的な教育問題だけではなく、より複雑な政治的背景があった可能性が指摘されています。

  • 外交路線の対立: 政秀は美濃の斎藤氏との同盟(濃姫の婚姻)を主導した立場でしたが、今川氏との対立が激化する中で、織田家内の外交方針をめぐり政秀が孤立し、追い詰められていた可能性。
  • 名馬をめぐる逸話: 後世の史料(『政秀寺古記』など)には、政秀の長男が持つ名馬を信長が欲しがったものの断られ、それが原因で不和になったという逸話も伝わりますが、これは史実として確認できるわけではありません。

信長は政秀の死を深く悲しみ、後にその菩提を弔うために「政秀寺(せいしゅうじ)」を建立しています。

叔父・織田信光の活躍と暗殺

清洲城は、戦国時代に尾張の中心として栄えた城です。織田信長が本拠としたことで知られ、現在は復元天守が建ち、信長ゆかりの歴史を伝える観光名所となっています。

信長が尾張守護代の織田信友を討ち、守護代の本拠地である清洲城を掌握できた背景には、叔父である織田信光(おだのぶみつ)の大きな協力がありました。信光は信秀の弟にあたり、軍事面で信長を強く支えた人物です。

しかし、清洲城奪取という大功を挙げた直後、信光は突然の死を迎えます。

『信長公記』では家臣・坂井孫八郎による殺害(暗殺)とされていますが、その背景や動機については諸説あり、一族内の権力闘争や偶発的な政変など、現在も様々な推測がなされています。

織田信秀ゆかりの地|万松寺と桃巌寺

現在、名古屋市内には織田信秀の足跡や供養施設が残されており、当時の歴史を感じることができます。

万松寺

信秀自身が天文9年に建立し、自身の葬儀の舞台ともなった寺院です。現在は大須の商店街の中に位置し、近代的な建物となっていますが、織田信秀の位牌や木像、供養施設が安置されています。からくり人形による信長のエピソード再現などもあり、織田家の歴史を今に伝える場所です。

  • 所在地(住所):愛知県名古屋市中区大須3丁目29-12(〒460-0011)
  • アクセス:地下鉄鶴舞線・名城線「上前津駅」8番出口から徒歩3分。
  • 公式サイト:https://www.banshoji.or.jp/

桃巌寺

信秀の墓所として一般的に広く知られているのが桃巌寺(とうがんじ)です。この寺院は、信秀の次男である信勝(達成)が父親の菩提を弔うために創建したと伝わるお寺です。

境内には信秀の五輪塔(墓)が建てられており、その隣には信勝の五輪塔、さらには柴田勝家の供養塔も並んでいます。かつて家督をめぐって対立した者たちが同じ境内に祀られている配置は、織田家の激動の内紛史を象徴する貴重な史跡となっています。

  • 所在地(住所):愛知県名古屋市千種区四谷通2丁目16(〒464-0819)
  • アクセス:地下鉄東山線・名城線「本山駅」6番出口から南へ徒歩3分。

まとめ:織田信秀の死因と急死が織田信長に与えた歴史的影響

織田信長の父・織田信秀の死因と、その周辺で起きた出来事について改めて整理しておきましょう。

  • 死因の実態: 『信長公記』には「疫癘」によって死去したと記されているが、現代の医学的な病名を特定することはできない。
  • 没年の議論: 天文20年説と天文21年説があり、近年は発給文書の検討から天文20年3月3日没とする説が有力視されている。
  • 抹香投げつけの真意: 史料に理由は記されておらず、家臣団への抗議や父への複雑な感情の表れなど諸説ある。
  • 一族・家臣の動向: 信勝(一次史料では達成などの署名あり)を支持する柴田勝家ら有力家臣の一部との対立や、平手政秀の自害、叔父・信光の暗殺など、信秀の死を契機に内紛が激化した。

強力な指導者であった信秀の死は、織田家に深刻な危機をもたらしました。信勝派との内紛や守護代家との抗争、さらには今川氏からの圧力など、若き信長は数多くの試練に直面することになります。

結果として信長はこれらの危機を乗り越え、尾張統一を達成し、後の天下布武へと進んでいくことになります。信秀の死とその後に起きた激動の権力闘争は、信長が統治者・軍事指導者として成長していく上での大きな契機となったと言えるでしょう。

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